昭和52年05月06日 朝の御理解
御理解 第64節
「此の方は参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参ってくるが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」
身しのぎをするようになれと言う事は、お徳を受けると言う事だと思います。お徳を受けて、何にも不自由のない人間として幸福生活には入れる、言うならば、いちいち神様に生活のすべてが委ねられ、任せられてそして、その神様にいろいろお指図を頂けれるようになる、やはり霊徳、神徳を身につけれる、またそう言うおかげの頂けれる道を教祖金光大神は求めていけば求めていったで、それだけのものを教えて下さる。
始めの間はそんなわけにはいけません、此の方は参って尋ねるところがなかった、そして、そこに実意丁寧神信心を続けられるところに天地の親神様の、いわば目に止まった、そして、またとこう言う氏子を見たこともないといわれるほどしの信心の、そのなんとも申しますか、もう誰も真似の出来ない、いわゆる心の状態とでも申しましょうかね、それはいろいろに修行してまあ不思議な世界に高尚を持つ、そして、そこにまあ不思議な働きを現して人が助かると言うような例もたくさんあるのです。
もう既成宗教であるところの、キリスト教とか仏教とかと言う様な、大きな宗教もそうですけれども、最近いわゆる、新興宗教といわれる教祖宗祖と言われる様な人達は、やはり皆そう言う身しのぎのできられる方達ばっかりなんです。段々そう言う不思議な働きを現して、成程一つの助かりの理念と言う様なものをもっておる、ですから助かる、けれども、金光教の教祖様の教えて下さる信心は。
もうどの宗教にも、どの教派にもないものを、いわゆる、金光教の独自性と言った様なものを、私は今合楽で言っておる霊界観とか、または因縁又は罪業罪の業、又はいわゆる罪と言う人間の難儀のもとは、その人が罪を作っておるからだ、罪をもっておるからだとこう言う、因縁があるから回りまわって今日そんな難儀な状態にあるのだと、もうあらゆる宗教宗派がだいたい説いておりますね。
教祖もなら難儀の元と言うのを、どうといておられるかと言うと、いわゆる前々のめぐりでなんを受けおると教えておられます、その前々のめぐりと言う事が、例えば既成宗教、または今の新興宗教で言うておる事とは、全然違うことを言っておられるのです、そしてなるほどそうだろうとこう思うんです、言うならば、天地に対するところの御粗末御無礼、思い違い考え違いが難儀の元になっておると仰っておられる。
何代前にお前の所、が悪い事をしたのが因縁になってるんだとか、こう言う罪を犯しておるからだとか、もう言われると罪と因縁ばっかりになって、その罪から因縁から脱する事が出来ないほどしの難しい事、もしそれを脱しようとするならば、それは人間業ではとてもとても出来そうにも思われない様な、いうならばその五戒の節に従わなければならなかったり、十戒の教えを身に付けていかなければその罪から、又はその因縁からはほどかれないと言うのがもう殆どの宗教、まあ全部というても良いでしょう。
又そう言う様な理念を持たずにですね、持たずにまあ人が助かると言う様な事の場合もあります、まあしかし宗教とはいえないほどしのものなんです。ちょっとまあ言うならお稲荷さん的な、その俗信仰ですね、けれども教えを持ってそこに助かりの理念があって助かって行っておるといってもです、そう言う根本的に教祖の言われることと違っておる、言うならば罪もなからなければ因縁もない。私共の生きる世界には悪魔もいなければサタンもいないと言うのです。
あるもの一切が神愛だと言うのです。悪魔が働くかの様に見えておる、その悪魔が難儀をそこに持って来ると言う訳ですけれども、その悪魔とても神様のお使いであって、おかげを頂かせたいと言う、神愛の現われなのだと教祖は説いておられるのです。私はここ二、三日、不思議に他宗教の方達が、でおかげを受けられずにここに救いを求めてくるという人達、昨日も御主人が天理教の先生をしておられる人がお参りしてきた。
この月次祭には宮崎から参ってきた、まあキリスト教と仏教を一緒にした様なものらしいんですよ。これがとうる布教ちいう、お月様とお天道様とをこうやって拝しした、トウロスコって英語で書いてある、お守りって書いてある、宇宙大礼のこれが御神体なのです、は天地の親神様ちいう意味でしょうね、そして坊さんが袈裟さがかけにゃん、桶さんほら立派に念がいってるんですよね、そしてキリスト教的なかと思うと今度はこんなお数珠のようなつもこうやってある、これはずうっとまいとかなんでしょうね。
あぁぎったになっとるけん、手にこうやってしとくとですたい、いい事はいいですね、私はこのお数珠というのはとっても好きです、もう本当にずうっとこてんだけでつまぐりたいぐらいに好きです私は、子供の時から好きでした、お数珠というのは、なんか一つの宗教のこう形成して行く為に、もうしかも千年も二千年もたったという宗教は素晴らしいです、そういうその例えば、葬式なら葬式なんかでも、仏教なんか素晴らしいでしょうがね、る事やらが、そういう洗練されてきてるです。
そう言う洗練に洗練をされてきたの、をキリスト教のよかところと仏教のとことこう言うふうに持ってきて、そして新たなとうる布教か、何とかうんあぁトルルス、トルルス教という宗教にもうそれこそ難儀なことで熱心に信心をしたけれどもおかげは受けられず、そして合楽に御神縁を頂いて、おかげを頂いてもうお礼参拝に来た時に、だからこれはもう全部そのここで処置して頂きたい、でこれを全部焼かせて頂いて、もう勿体無いごたるのこげん入っとるけんで、ちょっと見せてもらおうかと。
ほんなこて、こんな立派なものができとる、御本殿なんです。御教えの歌ちいう、これはトルルス布教です。それから昨日、一昨日は生長の家に進められて、生長の家のこれがお守り様、これにはカンロのほうをという、これを私は聞いただけで知りませんけれども、それはもう素晴らしい名文句だそうですね、これにずうっと名文句が書いちゃる訳ですね素晴らしい事が、人が助かる意味のことが書いてある。
だからそれをお守りとしておるのが、これはそうかじゃない、これだとこういう訳なんです、あの生長の家ここに、三日ですよこうして集まってくるのが、それから夕べは壮年、壮年会でしたから、例によって清さんがお話をしておりましたが、先日星野の方へ用件があって家族中で、息子が身体障害のなんかを扱っておる、まあ仏教が経営しておる所らしいです、だからやっぱ本山までいってから仏教の教えを身につけてこな行かんげな、それがあそこの長男がそちらへ勤務しておりますから。
どげん時は勤務しておるじゃろうかと思うて、この頃家族中で子供達も連れて見に行ったと言うわけです。そして帰りにあるレストランによらせて頂いた所が、そこに禅林会と言う看板がかけてあるね、そしてその横にやりますと書いてあった、だからそのおカミさんにこの禅林会とか、やりますとかちいうのはどう言う意味ですかち、そしたら途端に親切になんなさってから、もうとにかく二階におがリ下さいちいうてから、二階に上げられて、それはもうサイダーやらここ出してきて。
子供達にはアイスクリームをやって、そしてとにかくこれを聞いて下さいと言うて、教祖様と言う方のテープを聞かせて頂いた、それはもう家内が笑う、笑うまいと思うてそうに骨を折らにゃんぐらい可笑しかそうですね、そのお話と言うがもう実に、あ、い、う、ちうふうごたる風で言いなさるそうです、だからもうそれが、可笑しかごたるけれども、実際聞いてしまうと、それが非常に印象に深く残っておる、と言うて覚えきとるとです清さんが、でそれを昨日、発表の中に申しておりましたから。
それはすばらしいことじゃからちょっと高橋さんそこに控えてくださいちいうて書いてもらいました、ちょっとよんでください。(高橋さん拝読=笑顔と喜びの生活をすれば人間の運命を直ちに幸せにする、見えざる冥利のなす技あり)、素晴らしいでしょうがね、例えばあの信いうなら信心辛抱です、だから信心辛抱と言う事はそれなんです、辛抱しとるけれどもね、ほりゃもう苦しゅうして応えん、苦虫噛み潰たることで辛抱したっちゃもうそれはなぁにんならんっちね、
それを辛抱させて頂く時に葉がにこやかであらなければならん、本当に御真意に添うていきよるじゃから、もう本当ににこやかであらなければならないという事をいっておられるわけです。それでまあその二階に御主人がおられて、そのご主人がもうそれこそ熱心に、その禅林会が素晴らしいことをまあ説かれた。こちらはまるきりスパイのような気持ちでいっとる、きいたったからあのまあ、そんな気持ちで聞かせて頂いたけれども、助かりの理念をもっとる訳ですね。
かんろのほうでもそうです、これを読んでみたらもっと素晴らしいことでしょうけれども、これをもっとくだけで、いわゆる交通安全の守り札にもなると言う、災難も除けられると言う、もうこれもやはり、あらゆる宗教のよかところだけを取ってでけておると言う話です、私はよく知りませんけれども、けれども結局は因縁を言う、いい罪をいう訳です、人間の難儀と言うものはそう言う事だとね、そう言う意味でです、私共は教祖様の信心を正しく言うとね。
もう全然助かりの理念のもう一つ向こうに、は成程私共は人間、生身をもっとる人間のする宗教であり、どこまでも道理におうた信心だなと言う事が、他の宗教やらを聞けば聞くほど分かる、ハッキリしてくるです、それを金光教では、余り言うてこなかったようですね、金光教の独自性というものを、他のところへ持っていってるです。例えばこの禅林会の教祖様と言うのは、一月一遍ぐらいは必ず山にこもらなければ、大体は霊力が薄くなるそうですね。
だから自分の霊力が薄くなると、山にこもって信者を引き連れて、まあ、何日間と言うて色んな断食したり、修行をして、また帰ってこられるとまたあらたかな教えがどんどん出たり、人がどんどん助かるようになる、もうそう言うところが例えば、金光教の教祖のいわれる、なら現在それを合楽でいっておる表行より心行をせよと、もう表行は本当はつまらんのだと、それこそ夕立の雲のようなものだと、暫くするとすっと消えてしまうと言う事が、その禅林会の教祖と言う人の場合は言えれるでしょうが。
だから禅林会では言う、とにかく人が助かると言う事は教祖様、宗祖様と言う方がおる間でなからなければ助からんから、今のうち禅林会の教祖様が生きておる間に、おかげば頂いておけという訳なんです。そう言う意味でも例えば一つの修行観ですね、もうあらゆる宗教がそう言う所、があります。金光教においてもやはり表行を本行のようにしてした教会もありゃ先生方もあって、また現在でもあるけれども。
それで御比礼を受けたけれども、ならそう言う先生がなくなられる途端に比礼が落ちてしまうと言うのが実際です、だから金光教もやっぱりそう言うふうな、そのまあ同じような時代もあった訳です、今でもそうですけれども、合楽ではそこんところをはっきり教祖様は表行より心行をせよ、表行より心行をせよと、仏教より金光教をせよと仰ったら、その仏教をとってしまわなければならないように、表行をとってしまわなければ心行一本にならないのです。
そこでです、ならお互いも金光教祖の信心によって徳を受けて行こう、身しのぎのできるようなおかげを頂いて行こうと、願うところに、御教えを頂かなければならないと言う事になります。北野の関さんも合楽に、当時の椛目に一生懸命お参りをなさっておられて、ある事から一応やめられた、どうしてじゃろうかと言いよったところが、禅林会に導かれた、そしてもう熱烈な信心をなさった、もうそれこそこんなに大きな社を金光教の御子蔵(おこくら)とよく似ております。
まで受けてもう一切を受けて、もうそれこそあの椛目の先生は日本一じゃろうばってん、今私共が拝みよる先生は世界一と言うて、そのまあ言うならば打ち込んだ信心をされた、ところが結局はいけなくて現在はまた熱烈に、ならこちらへだから、そのお社を随分お金が掛ったから、全部もって見えましたから、久富先生がここで皆焼かれました、これはこんな玉なんかはもう勿体無いごたる玉が中にはいっとるです、飾りもんじゃなかろうかともあるね、それを全部焼かせて頂いて。
また今度は新築があった時に、今度はもういよいよ神様のお部屋も作って立派に改式もされる、また金光様に変わられた。だからどこにかその、合点のいかないものがあるけれどもあったのでしょう、だからいわば今、合楽で説いておる金光教はもうどこに持っていっても素晴らしいんです、金光教も同じ断食したり、水をかぶったりしてから、拝みござるじゃないかと言うな事が、今の合楽はだからないわけです、それでいてそう言う事を全廃して心行一つになった途端に、なら合楽の御比礼も変わって来る程しに。
ほんなこつだから、より本当な事に成って来る訳なんです。と言うてならそんなに素晴らしい金光教だから、簡単に身しのぎが出来る様になるかと言うとそうじゃないです、そしてなら、昨日あたりの御理解を頂いてです、もうこんなに素晴らしい手掛かりが、信心を進めて行く上にあるだろうかと言う様に、いつも私は思うけど、昨日の御理解特にそう思いました、はぁ成程おかげの頂けん筈だ、おかげの頂けん筈だというものを自分に分からせて頂くと言う事。
と言うてならそれが完璧に、お互いが出来る訳はないのですから、そこにお詫びの印に、例えば一言つづでも良いから、空しゅうなって行こうと言う御理解でしたよね、空しゅうなって行くと言う事は、例えば昔の戦時中に一日戦死と言う様な事で御奉公に私でおかい、いろんな奉仕にでたようにです、信心させて頂く者が、もう今日一日はもう死んだ気でとか、もうこのことだけには言いたい、けれどもそれを死んだ気で言わんで済む、昨日の私はあのうどんのすめのないお話がそれなんです。
お位牌さんがものをいわっしゃるはずがない、もう死んだ気になったら、それが出来るのです。私は昨日の御理解頂いてほとほと感心、感心してと言うか、有り難いなと、教祖の信心をこんなにお互い、本当な信心とは、どげんなんふうにしたら、良いだろうかと思うておる人が、金光教の信者の中では、沢山あろうと思うのです、どうしてもおかげが受けられん、どう言う信心をしたらおかげが受けられるじゃろうかと思うておる人があろう、手探りに信心の稽古をしとるけれども。
合楽の場合にはもう日々が、もう新たな更なその気になれば、はぁなるほどこう言う信心をせにゃお徳が受けられん、こう言う信心をすりゃおかげが受けられると言う事が説かれておるわけです。だからそれをね、昨日もその清さんが言っておられたが、禅林会でもです、いくら素晴らしい教祖様があっても、そのやります、やりますと言うやりますと言う気にならなければおかげは受けられんといっておられるそうです。
やりますと言う事はもう本気でやると言う事なんだそうです、禅林会やりますと書いてある、あれはもう合楽では、それをもろうてきてもよいな感じがします。皆さんやりますの気にならなきゃ駄目です、今日頂いた教えを本気でやります、本気で行じますと言う気にならにゃだめです。けれども幸い、有り難い事には金光教の信心、いわゆる合楽で説かれておる事はどこの何派、何宗を持ってきてもです、言うておる事はちょっと同じような事でも根本的に違うほどしに素晴らしい。
しかもその素晴らしい所を聞かせて頂くと、成程生身を持った人間の助かる宗教である、また生身をもっておる人間の言うならば、する信心だと言う事がいよいよはっきり分かって来るです。いうなら人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせよと仰るがなに派、何宗の話を聞いても素晴らしいです、教えはやっぱりその天地の大礼と言う様な風ななんですから、けれどもね肝心な所で嘘を言うちゃるです。
まあ嘘という訳じゃないけれども、まあそれだけ程度が低いから、いわゆる嘘も方便と言うような助けたいばっかりでの教えかもしれません。けれどもそこんところをいっぺん私共も通ってきたけれども、そう言うものを全廃して、本当な信心へ進んでいけれる、そして現在では、なら合楽理念に基づいた生き方、例えば本気で信心させてもろうて、本気でおかげを頂きたい、ならば例えば自分のおかげをいただけないところが分かり、自分のお粗末ご無礼のところを分からせてもろうてそれをお詫びの印に。
私は昨日、十五万円と一万五千円と言うたことを間違った言い方をしとるから訂正しとって下さい、あれは一期と言う意味です、どうして十五万と一万五千円と一、五を使われたか、一期と言うのは一期と書くんです、一生と言う事です一期の願いと言うでしょうあの一期、はぁ成程これは成程一と五と言う字を使われたはずだと、神様が十五万円下さろうとしとるけれども。
こちらの受け物が悪いから、一万五千円になってしまう、そこで神様が下さろうとするだけのおかげを頂くためには、これをゼロを一つつけ行かなければいけない、0を一つつけたら十五万になる、そんなら0をつけると言う事はどう言う事かと言うと、ゼロ自分というものを空しゅうして行く修行をすると言う事、はぁいいたけれども、死んだ気で言うまい、こうしたいけれども死んだ気でするまいと言うようにですね。
難しい事はないでしょうが、それでお詫びが叶うならば、しかもならそれは一遍、十遍したからと言うて、なら身しのぎの出来る程しの事になるわけはないけれども、それに熱情をかけてそれを続けて行くと言う事なんです。昨日研修前に、千恵子さんが本当にあれだけ熱心な神様に打ち向かうなら、神様がおかげを下さるなあと思うです。本当に打ち込んだ信心をさせてもらえや、本当に確かに身しのぎが出来る様になると私は思うです、にはやはりやりますと言う気を起こしてです。
それに本当に貫ぬかにゃいかんです、研修する前にテープで何回も聞いてまとめます、そのまとめておる時に今の所の話をさせて頂きよる時に神様からお知らせを頂いとるとがね、昔と徳用マッチち言うのがあったでしょう、大きなあれを中をほがして中に一杯マッチの実が入っておるところを頂いた。徳と用いると書いてあるでしょうがね、身しのぎのできるような信心が出来ると神様が用いて下さる。
神様が用いて下さろうとする、使うて下さろうとしてもその人が汚れ果てておったり、力がない者を使いなさるはずはないですよね、力が出来るから神様がつこうて下さる、神様が付こうて下さる、御用に携わるからいよいよなら、神様のご信用を受けて行く事が出来ると言う事になりますね。しかもそのマッチの一本一本がです、いわゆる燃えて行くわけです、だからあれに五百本なら五百本のマッチの実がはいっとるなら、そう言う死んだ気でと言う様な信心が続けられて。
なら徳用マッチ一箱分終わった時に初めて一つの徳と言う物が形成される、一つの徳が出来る、身しのぎのできるような信心が出来るのです、だから二編、三編死んだ気になっただけじゃいかんわけたい。昨日のところはそこんところが説いてなかったのを千恵子さんがいただいとるのはその徳用マッチをこう開けて中ば見たら一杯のマッチがつまっておるところである、なるほど徳を受けなければ神様がつこうちゃ下さらんち言う事、本当な意味においてはね。
そこでお互いがなら身しのぎのできるような信心ね、此の方は参って尋ねるところがなかったと、皆は遠路の所をこう矢って参ってくるけれどもね、合楽ではそれをどんなにでも求めて来るならつまびらかにして下さると言う事、お徳を頂くためにこう言う手掛かり、おかげを頂くためにこう言う信心をさせて貰わならんと言う事を、言うならば、教えて頂くのですから、それを行じて守っていかずしておかげの頂けれるはずはないじゃないか、それをなら最近は大坪総一郎の言う事に背かぬようにと言うのです。
それもあれもこれもじゃない、なら大祓信行の徹底であり、または五つの願いの言わば徹底である。それをやりますと言う気になって、貫いて行く所にです、私はねそれが五十遍が百遍、とにかくその徳用マッチの中に、どれだけのマッチが入っておるか分からんけれども、それをね熱情、その一言一言にかけて行くところにです、身しのぎの出来る様なおかげが受けれると言う事であります。それはおそらく私は読んでみらんけんこのかんろのほうだってです、この御教えの歌だってす。
恐らく素晴らしい、言うならば、名文句と言うか、御教えが一杯あるだろうと思います、だからそう言う事をもっておるなら、もうあらゆる宗教といわれる宗教は教えに悪い教えがあろうはずがありませんです、けれどもそのいよいよ根本においてです、助かりにくい、これでは助かりようがないと言う様な、どうにも出来ないものに直面するです、これば極めて行きよると。金光様の信心は極めて行けばいくほどに素晴らしい、垢抜けたすっきりしたものになって行くです。
そしてこれこそ人間生身の、人間がする宗教だと言う事に落着するわけですね。だからそれを分かっただけではなくて、本当に身しのぎの出来る様なおかげを頂きたいと言う願いを立てて、まあ昨日のご理解をもう一遍頂きなおして、それこそ一言一言が、なら今日一日はと言う事になり、一日は今日一日は死んだ気でと、そのことがこんなにも楽であり、こんなにもおかげの頂けれる事ならと言う事になって、それがね一日が二日、二日が三日、それを合楽では十三日会に現しておるわけです。
十三日会と言うのは、神様の願いが成就する日として、十三日会を大事にする、朝から、それこそ、神様の御用を直接させてもらう、そして昼からは神様の心に添い奉るための、信心とは言う信心研修をさせてもらう、あれは一日戦死ですよ言うならば、だからただ十三日会だからどうこう、お話を聞いて御用だけじゃなくて、もうその日は一日、言うならば死んだつもりでと言う事になるです。
それもなら草一本取らせて頂くでもです、それこそにこやかに、何をさせて頂くでも腹かきまわってしたんでは、もう修行にはならんと禅林会の教祖は、言うておられるわけです、そう言う神様の御用をさせて頂くのであるから、御用をさせて頂きながらその修行を真っ向から受けさせて頂いて、その顔はいつもにこやかでなからなければほんこつじゃない、信心はなんと言うても家庭の円満が第一じゃと。
やはり禅林会でもとかれるそうです、しかもそう言う家族五人おるなら五人の者が、にこやかにして行くなら、やっぱおかげを頂くはずですね、それを長年金光様の信心をしておって家の中は、ぶっするがっすリ言うておったりですよ、もう本気でね、やりますと言う気にならんでおるからですよ。中途半端にしておるからいつまでたっても、本当の金光教的すきっとしたおかげにならんです。
禅林会のその言葉を借りるならです、もうやりますと今日は皆さんがね、一人一人ここでやりますと言う様な、私は神様への一つの誓いを立てて、今日一日が終わらせてもらい、今日一日死んだ気でいうなら、不平も言うまい不足も言うまい、どんなに苦しい事の修行があってもそれこそ、心の中にこれ一切神愛と受け止めて、にこやかでその修行を受けて行こう、だからいつも手鏡の一つをもっておってね。
はぁこの顔ではおかげを受けられんと、気がついたらしらごつでも良いけん、にこやかな顔を作っていかにゃ行かんわけですね、そこにはそれこそ、やはり笑いのとまらんごたるやはりおかげにも、繋がってくるじゃろうと思うんです。まあ他の宗教の、今はまた宗教に良いところがありましょうけれども、現在私が頂いておる、金光教の信心は、今の時点ではです、もうどんなにも素晴らしい宗教やら、歴史を持った宗教や、ら大きい宗教があってもです、。
もう今は本当にたったこれだけの小さい事ですけれども、これがいよいよ光の輪が広がりに広がり、合楽示現活動が本当に、いわゆる、生きた働きをするようになったら素晴らしいことになって、言うなら、金光教だけではありません、宗教、言うなら、革命が成されるほどしの内容を持っておるのが金光教だと、それを合楽では説いておると私は思うんですよね。
どうぞ。